日本語が亡びるとき

読んでみたい本 - Grab Tribbles 徒然なるままに

目次
一章 アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々
二章 パリでの話
三章 地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々
四章 日本語という<国語>の誕生
五章 日本近代文学の奇跡
六章 インターネット時代の英語と<国語>
七章 英語教育と日本語教育

一章 アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々

p.48
 言葉には力の序列がある。
 一番下には、その言葉を使う人の数が極めて限られた、小さな部族の中でしか流通しない言葉がある。その上には、民族の中で通じる言葉、さらにその上には、国家の中で流通する言葉がある。そして、一番上には、広い地域にまたがった民族や国家の間で流通する言葉がある。

p.49
 今、人々の間の交流が急激にさかんになったことによって、言葉に有史以来の異変が二つおこっていると言われている。
 一つ目の異変は、下の方の、名も知れぬ言葉が、大変な勢いで絶滅しつつあるということである。(中略)都市への人口集中や伝達手段の発達や国家の強制によって、言葉は、かつてない勢いで消えつつある。
 二つ目の異変は、今までには存在しなかった、すべての言葉のさらに上にある、世界全域で流通する言葉が生まれたということである。
 それが今<普遍語>となりつつある英語にほかならない。

p.51
私が理解する限りにおいて、今の言語学の主流は、音声を中心に言葉の体系を理解することにある。それは、文字を得ていない言葉も文字を得た言葉も、全く同じ価値を持ったものとして考察するということであり、<書き言葉>そのものに上下があるなどという考えは逆立ちしても入り込む余地がない。言語学者にとって言葉は劣化するものではなく変化するだけである。かれらにとって言葉が「亡びる」のは、その言葉の最後の話者(より精確には最後の聞き手)が消えてしまうときでしかない。
 いうまでもなく、私が言う「亡びる」とは、言語学者とは別の意味である。それは、ひとつの<書き言葉>が、あるとき空を駆けるような高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ったしまうほど低いものに成り果ててしまうことにほかならない。ひとつの文明が「亡びる」ように、言葉が「亡びる」ということにほかならない。

p57-58
過去の遺産ゆえ、日本文学から、現実にはもうありえない高みをいまだに期待してしまうのである。今、「文学」としてまかり通っているものの多くが、過去の遺産ゆえに、「文学」としてまかり通ってしまっているという事実にいつまでも慣れないのである。そして、それと同時に、何かが日本文学に起こりつつあるものを−ひょっとすると日本文学が、そして日本語が「亡び」つつあるかもしれないのを感じているのである。

p.58
雄々しく天をつく木が何本もそびえ立つ深い林があり、自分はその雄々しく天をつく木のどこかの根っこの方で、ひっそり小さく書いているというイメージである。福沢諭吉二葉亭四迷夏目漱石森鴎外幸田露伴谷崎潤一郎等々、偉そうな男の人たち−−図抜けた頭脳と勉強量、さらに人一倍のユーモアとを持ち合わせた、偉そうな男の人たちが回りにたくさんり、自分はかれらの陰で、女子供にふさわしいつまらないことをちょこちょこと書いていれば医と思っていたのである。
(略)
日本に帰って、いざ書き始め、ふとあたりを見渡せば、雄々しく天をつく木がそびえ立つような深い林はなかった。
(略)
「荒れ果てた」などという詩的な形容は全くふさわしくない、遊園地のように、すべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった。